「16歳の教科書2」(13) 占い

 占星術研究家の鏡リュウジさんは、現代人は「占い的なものを便利に使いこなしている」といいます(p.193)。

 「現代に生きる僕らは、自分がものすごく科学的な人間で、なにごとにも合理的な判断を下していると勘違いしがち」で、実際は「全面的に信じることはできないけれど、なんとなく気になるし、気にしている」存在、つまり占いを使っているのです(p.192)。

 この点を鏡さんは「クールな科学」「クール脳」と「ウェットな占い」「ウェット脳」という言葉を使って説明されています。

 たとえば大学入試の当日の朝に歩道を歩いていて、交通事故に巻き込まれて受験できなかったとします。このとき警察から事故の客観的事実をクールに説明されても納得はできないのです。「なぜ、自分なのか」「なぜよりによて試験当日なのか」という疑問が湧いてきますが、「クール脳」はこの素朴な疑問には答えられないのです(p.194~195)。

 鏡さんは、ユング心理学の河合隼雄さんの「科学はHow?には答えられるけど、Why?には答えられない」、という言葉を引用されています。「どんなに客観的事実を積み重ねていっても、根っこにある『なぜ?』には答えられない」のです(p.195)。

 「なぜ」は主観の問題だから、客観的な観点からは解決できないのです。心とか感情とか、ウェットな問題なのです。この「なぜ」に答えようとするのが占いなのです。

 私は占いとか迷信とか、あまり信じない方なのですが、「科学はHowには答えられるけど、Whyには答えられない」という指摘は新鮮でした。Whyに少しでも答えようとする存在があると知ることができました。

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「16歳の教科書2」(12) 何者でもない自分

 李相日監督は、「何者でもない自分」にある日突然幸運が舞い込んでくることなんてない、とおっしゃいます。

 たとえば映画監督を目指している人が、コンビニでバイトをしている、そこに映画製作会社の人がやってきて、映画を撮ってみないかなんて声をかけてくれる可能性はゼロだ、といいます(p.186)。

 「厳しいことを言うようだけど、そんな『何者でもない自分』に、誰かが手を差し伸べてくれることなんか、一生ない」のです(p.186)。そんなのはあり得ないのです。

 「自分の人生を動かしたいなら、自分でアクションを起こすしかない」のです(p.186)。10代のうちは大人に迷惑をかけてもいいし、失敗しても謝ったら許してもらえるのです。だからまずは、「何者でもない自分」から一歩踏み出してほしい、と李監督はアドバイスしてくれます。

 僕らは、何とかなるわ、とか、自分だけはうまくいくんじゃないか、と心のどこかで勝手に考えることがよくありますが、そんなのはあり得ないのです。とにかく何かを始めないといけないのです。

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「16歳の教科書2」(11) 共同作業

 映画監督の李相日さんは、現場のスタッフ全員が同じ意識を共有することが大事な問題だといいます(p.178)。

 監督自身が面白いと思っても、スタッフが納得できないでいると、その違和感がそのまま映像に出てしまうそうです。

 みんなで意識を共有するために李監督は、話し合いに時間をかけ、まずは自分から歩み寄る、こういう作業を面倒だけど大切にしています(p.179)。

 このような共同作業は、「自分の殻をぶち壊す」ことにつながります。新しい解釈や別の考え方、「自分ひとりでは気付かなかったもの」出会うことができるのです。

 映画監督といえば、何か強引なイメージがあるのですが、李監督はとても柔軟な考え方を持っています。譲れないところは譲らず、柔軟なところは柔軟に対応する、まねしにくいけど素晴らしいスタンスだと思います。

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「16歳の教科書2」(10) 模倣

 映画監督の李相日さんは、思うようにいい映画が作れなかった時、「模倣」に取り組んだそうです(p.167)。

 自分がおもしろいと思う映画を徹底的に分析しました。どんなカラクリを使って感動させているのか、どんな仕組みが隠されているか、何度も映画を分析したそうです(p.167)。

 つまり一つの作品を「バラバラの素材に分解していくような作業」を積み重ねたのです。「そこまでやっていくと、一流の監督がどうやって「受け手」に伝えているのが、だんだん具体的にわかって」きたそうです(p.167)。

 技術が身についていない段階では、対象を徹底的に分解してみる。これはすべての分野に当てはまるやり方ではないでしょうか。

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「16歳の教科書2」(9) プロとアマ

 プロとアマチュアの違いは、出発点が「自分のため」なのか「相手のため」なのかの違いだ、と水野さんはおっしゃいます(p.138)。

 尽くして尽くして尽くしまくる、自分を「無」にして与え続けると、楽しくて、相手から感謝されるのです。このような状態を水野さんは「仕事に恋をする」と表現されています(p.154)。

 「求めるのではなくて、自分から与えようと思ってものごとに取り組んでいけば、自分の居場所なんて簡単に見つかる」、「与える喜び」を意識すれば、最高の自分が発揮できるのです(p.154~155)。

 一方、自分だけが楽しみたいのであれば、それはアマチュアであり、趣味でやることだ、と水野さんは指摘します(p.155)。自分の快楽を求めてばっかりだったら、そこに「自分らしさ」は出てこないのであり、「誰かのために生きる過程の中で『自分らしさ』が生まれる」といいます(p.155)。

 自分が楽しみたい、というレベルはアマチュアであり、この喜びを伝えたい、分かち合いたいと思えるようなら、仕事にできる、ということなのでしょう。

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「16歳の教科書2」(8) 感性

 水野さんは、誰もやったことのないものを作ろうと思ったら、何よりも感性だ、感性がなかったら新しいものは作れない、といいます(p.133)。

 しかし、この「感性」は、人間だけが持つ理性、つまり「禁止と管理のルール」によって抑えられているのです。学校でも、感性は脇に置いて、理性的であることが奨励され、「管理」の方向に向かいます。学校に「感性」の教育を期待しちゃいけない、のです(p.133~134)。

 それではどうすればいいかというと、「自分でやるんだよ!」と水野さんはいいます(p.134)。好きなものを見つけたら、とことん惚れ込んで、のめり込むこと、そうすれば感性は豊かになる、とアドバイスします。

 また、指導する立場にあるものがどうやって彼らの感性を引き出してあげることができるかといえば、第一に「感動体験」だと水野さんはいいます(p.135)。

 感動を体験させてあげる、「自分たちはこんなにすばらしいものを作ったんだ、こんなに喜ばれることをやったんだ、苦しかったけどやればできるんだ、という感動体験」です(p.135~136)。

 子供たちを感動させるきっかけをあちこちにちりばめるのが指導者の役目である、と思いました。

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「16歳の教科書2」(7) 先生の「2つの顔」

 日産GT-Rの開発責任者の水野和敏さんは、学校が嫌いで勉強も嫌いでしたが、「家に帰ってからやる自分の勉強はおもしろくてたまらなかった」といいます(p.127)。

 なぜ学校の勉強が面白くないかというと、勉強の出発点が「先生」や「テスト」になっているからだ、でも出発点を「自分」にすると、どんな勉強でも面白くなる、と水野さんは指摘します(p.128)。

 このようにおっしゃる水野さんですが、好きな先生、嫌いな先生、いろいろいると思うが、「先生たちが”2つの顔”を持っているということは頭に入れておいたほうがいい」とアドバイスします(p.130)。

 教壇に立っている「教師」と、教壇から降りて家に帰ったときは、まったく別の顔なのです。だから「先生のことを教壇に立っている姿だけで判断するのはもったいない」、「教壇から降りた素顔の先生を知って、そっちの顔を見ていく」ようにすれば、きっと本当の「恩師」に出会えるはずだと水野さんはいいます(p.130~131)。

 学校の先生も、本当は教科書を使って型どおりの授業なんてしたくないし、生活指導なんかもしたくないし、生徒と本音で触れ合いたいと思っている、と推察しています(p.131)。

 学校の先生は、素顔の自分を生徒に伝えたいと思っています。しかしその素顔を伝えようとしても、生徒にそれを受け入れる状況にない場合が数多くあります。そういうとき、学校の先生は内心しょんぼりしているものです。先生の素顔を引き出す工夫を楽しんでみてはどうでしょうか。

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「16歳の教科書2」(6) 社会に出て役立つ数学

 西成活裕先生は、数学は社会に出てからとんでもなく役に立つ、世の中の人たちが数学を理解すればするほど社会はよくなる、といいます(p.97)。

 それを伝えるため、最近西成先生は高校に出向いて特別授業をする時に、数学が社会でどう使われているかを説明しているそうです。

 しかし学校の先生は、数学の「解き方」だけを教えて、その「意味」や「意義」を教えてくれない、と西成先生は指摘しています(p.98)。その理由は、「学校の先生たちが知らないから」であり、教えないんじゃなく、ただ単に自分たちが数学の使い道を知らない、のだといいます。

 「なぜ知らないかといえば、自分自身がアンテナを張っていないから。わかりやすくいえば、最新の論文を読んでいないから。ちゃんと論文を読んでいれば、世の中のどんな分野でどう活用されているのか、具体例を示しながら説明することができます」、西成先生はこう説明します(p.98)。

 教育者にとって大切なのは、「自分の背中を見せる」という意識、であり、「まずは自分自身が数学のとりこになって、心の底から『数学ってやつは、なんて楽しいんだ!』と思えるレベルに行かないかぎり、、子どもたちはついてこない」と西成先生は断言します(p.99)。

 この指摘は、なにも数学の先生だけに限った話ではないと思います。すべての先生が自分の担当教科について強い興味関心を持ちながら勉強し続けなければならない、という西成先生の厳しい激励だと受け止めます。

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「16歳の教科書2」(5) リーダーシップとは

 正垣さんは、あの人を支えよう、あの人を助けよう、と集まってくる、これが本当のリーダーシップだといいます(p.81)。

 「まわりをグイグイ引っぱっていく力のこと」がリーダーシップだと思っていたら大間違いだ、と正垣さんは指摘します。

 私もまったく同感です。この人のためなら頑張ろう、と思える人にリーダーシップが備わっていると思います。確かに仕事はよく出来て組織に大きく貢献しているのだけれど、どうしても「その人」のために頑張ろう、とは思えない、というケースは多いはずです。

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「16歳の教科書2」(4) 「誰かのため」

 2人目は、サイゼリヤ会長の正垣泰彦さんのお話です。正垣さんは大学在学中にレストラン「サイゼリヤ」を開業し、その後イタリア料理のレストランとして飛躍的に店舗数を拡大させました。

 正垣さんは、人間とは不思議なもので「自分のため」だけでは力が出せない(p.59)、「自分ひとりでなにかができると思ったら、大間違いだよ。みんなといっしょじゃないと、すぐに妥協しちゃうし、本当の反省ができない」(p.60)といいます。

 「誰かのため」だから力が出る、と問われ、自分は誰のために頑張っているのかな、と思ってしまいました。自分のためだけに頑張っていると、力が出ないし、真の反省も生まれない…味わい深い言葉です。

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